うまれてきたしるし(1)
「京都では自転車部と言えばここ」と言われる高校に入りました。クラブ活動の毎日に満足していました。1年生の夏、まさかの青森インターハイに出場。種目は1000mタイムトライアルでした。結局、全国レベルには程遠く、京都に戻った途端に猛練習が始まりました。私には、自転車しかありませんでした。自転車だけが、命がけで自分を守る手段だったのです。
毎朝5時、もちろん雨の日も生家から比叡山を越えて琵琶湖までを折り返し、嵯峨野に近い高校に通いました。制服や教科書、カバンは全て部室に置いたままでした。放課後はクラブ活動で北山へ100km走り、その後、朝と同じコースを走って帰りました。大切な全国大会前に鎖骨を骨折したり、レース中にパンクしたりと、トラブルは山程ありましたが、国体、インターハイでも上位入賞を重ね、日本代表として国際大会で優勝できるようになりました。そして「クライミングの八代」と恐れられ、正がアタックを懸けると、だれも追い掛けてこなくなりました。
「やつは別格」、そんな時代も含めて、7年間の選手生活は充実した時代でした。それは「やればできる」という大きな自信となって膨張を続けました。また同時に、「自転車に関わった人生で全うしたい」と考えるようになりました。だから、社会人になっても選手を続けようとは考えなくなりました。目標が「自転車に乗る」ことから「自転車を創造する」に変わってきたのです。
選手を引退した私は、自転車関係の会社に就職しました。当時自転車関係では国内唯一の一部上場企業を選びました。そして、自転車競技の監督と商品開発室デザイナーとして、およそ10年近くが経過しましたが、私の目標はスポーツとしての「自転車」であって、より努力が必要と考え、円満に退社し、オランダに留学しました。「なぜ?オランダ?」と言いますと、正はまだ英語コンプレックスの固まりだったからです。
それまで勤めていた会社は情報の提供と言う事で、金銭的にサポートしてくれました。そのバックアップを得て、夢を追いかけることが実現できました。アムステルダム近郊の田舎町スコホルで、競技用自転車デザインとコーチ学などを学びました。また当時ツール・ド・フランスのトップメカニックであるバナソニック・ラレーのヤンデ・グランデ氏の指導を受け、ヨーロッパステージ・レースをコーチ兼メカニックとして転戦しました。まさに、「夢のできごと」でした。
そんなある日のこと、シクロクロスのヨーロッパ選手権に出かけた時のことです。楽しそうにレースを観戦されている日本の紳士に出会いました。その方は日本では三本の指に入るトップ部品メーカーの社長でした。
「君の夢は、ヨーロッパステージ・レースに日本チームを参戦させることだな。」
「当面はそうです。そして僕のデザインしたコンペティション・バイクが世界のトップに君臨することです。」
社長は言った、「私の目標は、君の夢と良く似ていると思う」と。二人の考えは一致しました。正は帰国を少し延ばし、自分がなるであろう実業団チームのヨーロッパ合宿地の検討や、ステージレースに出るための練習レースとして、クリテリウムレースとシス・ジュール(6日間のトラックレース)を選び、各地の興行主との交渉に入りました。
「えー、ジャポネ? サムライは走れるのか?」と言われたロードレース創世記のお話は次に続きます。NHK風に言うと、「この時八代正は34歳、日本人単独チームがバンデ・ボン・ネダーランド(オランダ一周レース)に出場する、まさに2年前のことであった...」


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