八代正のMYヒストリー『うまれてきたしるし(2)』 | IBO JAPAN

うまれてきたしるし(2)


帰国すると正は約束どおり、実業団チームの監督兼コンペティション・バイクデザイナーとして職に着きました。そのため、日本体育協会の公認コーチ試験を受け、自転車のコーチとして資格を得ます。しかし、このチームは決して強いチームではありませんでしたが、就任後は当時斬新なヨーロッパ式トレーニング(【デュアルスピード・トレーニング】=集団から飛び出し勝利を得るには、まず集団スピードに無理なく付いていけるスピードを備える)により、一躍日本のトップチームに変貌しました。全日本選手権、全日本実業団、国体など全ての種目で優勝する勢いでした。そのトップ選手達は、最近まではトッププロとして活躍し、現在は実業団チームの監督だったり、まだまだ活発に日本のロードバイクの普及に貢献しています。

入社1年後、ついオランダ行きの機会は訪れました。私達は8人の選手を連れてオランダ各地のクリテリゥムレース、6日間レースなど1ヶ月転戦しました。最初は手も足も出ない状態で、特にクリテリゥムの鋭角カーブ後のほぼ0からの立ち上げスピードの早さには驚き、ぶっちぎりでした。またピスト競技では、1周200mのトラックには腰砕けになりました。角度が50°のバンクを走り、止まる時はコートダジュール(退避ゾーン)から、コーチのアシストによってやっと止まることができます。だから、レースどころではありません。そんな経験を2年ほど経過すると、オランダでも勝つようになり、オーストリアに招待されたりと、レースの機会は一気に増え、ファイトマネーまで頂けるチームに成長しました。

ある時、オランダ一周レースのオーガナイザーがレースを視察し、「来年参加して頂くか検討するよ」と言い残して帰られました。そして翌年、オランダ最大のレース、全ヨーロッパチームと当時のソビエト連邦のチームが参加する、バンデ・ボン・ネダーランド(オランダ一周レース)に出場する権利を獲得したのです。

レースは7日間10エタップ(競技)に分かれます。初日は個人タイムトライアルで、1チーム8人が個々に走り、6人の合計タイムで順位は決まります。私達のチームは180チーム中171位と、腑甲斐ないスタートでした。それは、参戦するにあたり機材を多く持込むことができなかったためでもあります。本来タイムトライアルとマスドロードの機材は違って当然ですから、当然と言えば当然の結果です。チームは、当時オランダ全土で人気のあるの少しHな飲み屋のスポンサーで、マイクロバスはそれらしい女性のセクシーなデコレーションで飾られていました。私はそんなスポンサーやトレーナー、ドライバー、メカニシャン、コーディネイター(戦略立案)を現地で雇う準備を、1年前には完了していました。

初日の午後、最初のマスドレース140kmがスタート・・・残念なことにこのエタップにて早くも当チームから1名が脱落してしまいました。集団速度が「速すぎる。アウトバーンを走ってる時なんて、まるでチームパーシュート並み」と脱落者の弁。

2日目は220km。しかもオランダは風車の国、その国特有の風が選手を襲う海岸沿いのコース。集団は次々と分割し、私達チームは5人が最後尾グループに、2人がその前のグループに入っている状態でゴールを目指します。そしてゴールの町では、まるでクリテリゥムの様に町を周回します。そして日本チームは、そのクリテリゥム前で町にも入れずに2名脱落。大会2日を終えて早くも、5人となってしまいました。

3 日目の最初のエタップはチームロードです。私達のチームは5人で戦うしかありませんでした。殆どのチームは、8名が残っている状況でのスタートです。最初から勝ち目はありません。その結果、最下位のトリニダード・トバコの前の179位に総合成績は脱落、サポートカーもついに、最後尾のスイーパー前になってしまいました。また午後の160kmでは、エースの1人だった選手(最も期待していた選手)が意外にも脱落。

4日目200kmでも1人が脱落しました。残る選手も体力の限界にきていました。こんなに毎日走るレースは今まで体験したことがありませんでした。私達は3ヶ月前、このレースのために台湾合宿を行い、台湾ナショナルチームの協力でパトカーを先導し、ノンストップで2週間練習を積んできました。そして、最初から最終ゴール地点である、アムステルダムに到着する自信を持って、このレースに望んできています。しかし5、6、7日と残りは3日。果してアムステルダムに日本チームは到達できるのだろうか、選手もコーチの私もその確率は10%程...と思うほど疲れきっていました。

5日目は190kmしかもバンデ・ボン・ネダーランド最大の峠越え。メインエタップです。しかし、そこで奇跡が起きました。日本チームは見違える走りを見せてくれたのです。チーム員の○田、○原、○浦が峠越えでトップ集団に入ったのです。私の乗るサポートカーはどんどん前の車を追いこしていきます。そしてゴール近くまで2名がトップにしがみつき、初めて感動のゴールスプリントを見せてくれました。そして1名が脱落しました。脱落した彼は衰退した目つきで残った2人に、いつまでも頭を下げて謝り続けました。「もういい」といくら言っても、泣きながらあやまり続けました。敗者はすでに別行動で地方のクリテリゥムを転戦していますが、彼はゴールまでサポートをしたいと申し入れてきました。

6日目最初のエタップはクリテリゥムレースそして午後は170kmです。元気を吹き返した日本チームは、この日も驚く活躍を披露しました。トップ集団10人に残り、先頭交代を続けていたのです。残り僅か20km集団のスピードは一段と増します。先頭交代はグルグルと回り、誰が先頭かも分らないローティション・スタイルに変わったと同時に、ひとりの選手がはじき飛ばされてしまいました。「あっ」悲鳴と同時に、それは日本人であることが判明しました。私はサポートカーから飛び下り救急車に乗り換え、彼と病院へ行くことになりました。結果として、最終日のアムステルダムを目指すのは○浦ひとりでした。転倒した選手はベットで微笑んでいました。「悔いはない、がんばった。」、彼自身そう言いました。「いいからコーチ、早くチームに戻ってくれ。」、彼と次に再開したのは最終日の歓喜のゴールシーンでした。

「八代さん、もしゴールしたら、おれにダイヤモンド買ってくれるか」○浦は言った。後から伝説となった会話だった。
「いいぞ、トップ集団だったらな、社長とオレで買ってやる。」
ドアの外でトレーナーが私にささやいた「キヨシの脚の筋肉は伸び切ったゴムと同じだ。明日は無理をさせないように」と。

最終日前とのことでソビエトチーム、チェコチーム、東ドイツチームなどがジャージの交換や「パーツを売ってくれ」と頻繁に訪れます。私達日本チームはたった1台のロードバイクを入念に手入れしました。夏のオランダは白夜です。日は夜中11時頃地平線に近付いたと思うと、そのまま水平に進み、そして朝方には日は高々と昇ります。

そして、ついにラストエタップがスタートしました。ゴールは188km先のアムステルダムです。

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