八代正のMYヒストリー『Independence(1)』 | IBO JAPAN

Independence(1)


ある日のこと、正はジョン・トマック(後にMTBの神様と言われたスーパースター)達と、近くの山に走りに出かけました。有名な日本料理店のジュニアも参加し、5名程度のライディングです。途中、枯れたダムにやってくると、ジョニー(ジョン・トマックのこと)は、躊躇せずに直滑降で下っていきました。正は怖くて仕方がありません。何度もスイッチバックして、何度も尻餅をつきながらも無事に下り切り、上を見上げました。ジュニアは、な・な・なんとジョニーの様に直滑降で下ろうと試みたのです。その瞬間、何度も転がり地面に叩き付けられ鎖骨骨折してしまったようです。これでライディングは終了となりました。ジョニーは不機嫌です、無謀なジュニアを叱ります。「せっかくの楽しみが台無しだ!」と...。日本だとこれが反対で、怪我した者がメインで、回りの者が「大丈夫か」と気を遣います。私はジョニーに聞きました。
「何で不機嫌なんだ?」
「当たり前、せっかくの楽しいライディングが不注意によって終わったのだから。」
アウトドアスポーツは誰に迷惑をかけてもダメなんです。

だから正が日本初のMTBダウンヒルを始めた当初から、自己責任そして不注意で事故を起こした者は謝るように徹底しました。「怪我をして喜ぶものはいない。怪我が多くなると、君たちはもうこの山を走らせてもらえなくなる。」そんなモラルの徹底もここから生まれ、現在に引き継がれています。そして正は「Independence(自立)」という大切なマナーをアウトドアスポーツから知ることになります。「ルールよりモラルが優先」、こんな素晴らしい言葉に出会うことになります。そして、ここに846スタイルのイベントが確立していきます。

アメリカ最後の年、正はパサディナからサンフランシスコに移り住み、その後帰国しました。自分の少年期がそうだったように、障害を持った方にすごく興味がありました。アメリカのMTB界では、車いすの選手もダウンヒルをしています。そしてこの経験が、帰国後オフロード車椅子や障害者にアウトドアスポーツを提案していく切っ掛けとなりました。

正は何度か帰国をくり返していく内に、日本国内で本場アメリカン・スタイルのMTBレースが開催したくなりました。そして、ついに国内開催となりました。最初は兵庫県三田の柴田ファームという、アメリカン・スタイルの乗馬コースでした。早速USAの仲間に連絡すると、ネッド・オーバーエンドやグレッグ・ヘルボルト(両者共にトップスター)がすぐに来日してくれました。そして徐々にMTB人気も認知されるようになり、会場を長野県の白馬岩岳に移すようになりました。「マウンテンバイクって何だ?」という時代です。開催OKを貰うまで、2年かかりました。その後白馬岩岳に常設コースを作り、MTBウェスタン・ライディングレースを開催することになります。「ウェスタン」とは、アメリカン・スタイルの乗馬の意で、最もポピュラーなMTBレースの名称です。ダウンヒル、デュアルスラローム、クロスカントリー、ナイトライド等が種目です。

当初は人が集まりませんでした。2回連続の赤字となり、正は大きな赤字を背負いました。資金も底をつきましたが、それでも継続すると決意しました。「このままMTBが定着しなかったら、この素晴らしいMTBを発明した人に申し訳ない」と、自分に言い聞かせていました。そして、その後大ブームとなり、常に5000人以上の選手が白馬岩岳で集いました。正もこれをきっかけに、白馬に移住しました。世界のトップスターが毎年レースに参加してくれました。日本最大のクラシックイベントとして、誰もが注目する大会となったのです。MTBと言えば「岩岳」、MTBライダーだったら誰もが目指した「岩岳デビュー」でした。

このMTBの楽しさを日本全土に広めようと、全国オーガナイザー会議も発足し、富士見パノラマや多くのスキーエリアに情報を提供して拡大を進めました。 「MTBコースを常設で解放していただけるなら」と、岩岳のデーター、過去の事故の記録、イベント開催方法などの情報提供、またボランティアの派遣なども実施しました。

岩岳が軌道に乗った頃、次なる試みとして、アメリカからミシェル・シノットという女性選手を雇いました。大学を卒業したばかりのミシェルは、その後白馬に3年間滞在することになります。この選手を面接し、紹介してくれたのも自転車関連企業で、神戸に本社があるK.K.○井さんです。正のコンセプトを理解して頂き、そして大和撫子のレベル向上のため、骨を折ってもらいました。

彼女が来日して半年後、正は日本に慣れたミシェルにこう頼みました、「USAの車椅子チームを、何とか日本に連れて来れないだろうか? 交渉してくれるなら、毎年1ヶ月のUSA公休と渡航費を出してあげよう。」
彼女は早速動き出しました。そして1年後USA車いすチームの来日が実現し、日本のオフロード車いすダウンヒルの歴史がスタートしました。そして勇気ある日本人選手も誕生しました。○村選手、○野選手がこれを始めてくれていなかったら、もうすでに日本からオフロード車いすの火は消えていたでしょう。この両名に敬意を表したいと思います。ミシェルはとても素敵な女の子でした。3年前USAのソルトレイクで再開しましたが、現在アウトドアスポーツのツーリストクラブで働いています。彼女は女の子から素敵なレディに変貌しており、ちょいと一緒に歩くと何となく優越感に浸ってしまう正でした。

しかし白馬で開催してから6年目のことでした。突然白馬岩岳の夏場営業の打ち切りを索道会社から通告され、岩岳時代は終わりました。。。そして正は職を失ってしまいました。明日から暮らすための手段を失ったのです。MTBイベントをどこかに移して、開催することなど考えることもできませんでした。「夢は途絶えた...」。11月の東京サイクルショーで、「来年も岩岳をよろしく」と企画書を配った直後の話でした。12月に入った最初の週に、突然180°方針変更の通告されました。「えっ…」。私は翌年1月から無職になってしまいました。MTBの夏場の活性化は大きな収入となって白馬界隈に貢献はしていましたが、スキー離れは一段と増し、夏場に社員を雇用することは困難となり、また草刈りやゴンドラ運行も難しくなり、ついに白馬岩岳MTBパークは閉鎖されてしまいました。

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