八代正のMYヒストリー『S. Pasadena』 | IBO JAPAN

S. Pasadena


何度もアメリカに出張させていただきました。ハードスケジュールだったので、飛行機のトイレに入っている内に気を失って、降りる寸前で救出されたこともありました。連休の時は自分のお金で、何度もオランダからアメリカに渡りました。そんなことをくり返しているうちに、偶然、後でMTBの聖地と言われるようになるマンモス・レイク(カリフォルニア州にあり、ヨセミテ公園付近)のMTBレースに出会いました。

正は、当時トップスターだったジョン・トマックに近付き、彼にテンションディスクを使ってもらえるチャンスを得ました。そして、そのジョニーがテンションディスクを使って優勝してしまったから大変です。一躍脚光を浴びるようになりました。そんなことが色々あってから、やはりサイクルスポーツを切り離しては生きていけないと考え、徐々にスポーツの世界から離れていくだろう自分の未来に終止符を打ち、チーム解散時に会社の先輩と約束した仕事を完結し、退職させていただきました。

西海岸のロサンゼルスからフリーウェイ101で15分程走ると、サウスパサディナという自然に囲まれた芸術の町があります。小さなコンドミニアムがそれからの拠点となりました。デザインスタジヲ846の設立です。ここにたどり着くまでには数々のエピソードがあります。

まず最初にLAX空港でレンタカーを借りました。ビーチ沿いに走り、あるパーキングエリアで車を停めて夕食です。食べ終えて車に戻ると、キーを車の中にロックしてしまっていました。正は真っ暗な地下の駐車場で、レンタカーの下に潜り一夜を過ごしました。その時流れてきたのが、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』です。今でもそれを聞くと涙が出ます。

ビザを取り長期の滞在が可能になると、次にソーシャル・セキュリティー・ナンバーそして銀行口座を開いて、やっと家を借りることができます。もちろん運転免許とIDも必要でした。安い車も買い、ガスステーションで排ガスチェックを受けました。電気、ガス、上下水道、ゴミなどの手続きをして、やっとのことで見つけたのがこのパサディナでした。家賃は月額400ドル、決して立派ではありません(でもアメリカでは月10万円もあれば、文句無しに楽しい暮らしができるんです)。新しい出発は、○○化学や多くの方々の支援で実現しました。正は常に、多くの方の協力にて夢を追いかけているようです。

正はパサディナで毎日、デザインをしました。まだキャドの時代ではなかったのでドラフターでの作図です。そのうち自転車関係の数社から仕事が入って、何とか生活の基盤が整いました。MTBのレース、公園でのクリテリゥム、早朝のトレーニングレースなど、正は何度も見学に出かけました。そして、徐々にMTBの魅力に引き込まれるようになりました。

日本の自転車雑誌に3年間MTBを紹介したのがこの頃で、国内からのレース参戦ツアーも始めました(雑誌社にも助けてもらったなー)。 春になると、パサディナはジャカランダという紫の花が一斉に咲きます。まるで桜のようで、陽気な人々は野外パーティーを楽しみます。正の日課は、午前中サイクリング兼自分のデザインしたパーツのテストライドにハンティングトン・ライブラリーまで走ります。そして行き付けのオープンカフェでブランチを取ります。午後は週に2度ほど映画に行きます。これは英語の勉強のためでした。「想像すればわかる」ともかくアクション物やSFを見ました。いつだったか裁判の映画を見た時はちんぷんかんぷんでした。そしてだんだん会話に勇気が出るようになりました。女流作家シドニー・シェルダンの『イフ・トゥモロー・カムズ』が大流行し、正も初めて原文を読みきりました。あのアルファベットが全く解らない正が…。

「タダシ、君はいいよ、自転車という共通語を持っているから」と言うコンドミニアムの仲間の言葉が、より勇気をつけてくれました。パサディナのコンドミニアムには、愉快な仲間が住んでいます。ホリデーインのマネージャーは日本人女性に恋していました(後で結婚されましたが、パーティーは最高でした)。青年コンピューターエンジニアは、アイディアが取り上げられボーナスが出たからと車を買いました(ホンダ・アコードなんだけど、アメリカでは「アキュラ」って言うんです)。香港からやってきた女性のアナウンサーは「私は逃げ出してきたの」と不思議な発言(絶世の美女で、私達は「美人」の中国読みで「メイリーン」と呼んでいました)。そんな仲間と、週末には順番に各部屋を回ってパーティーです。正の場合は、いつも「手巻きすし」でした。テラスから飛び込むと、下はダイビングプールです。熱い日は、あちらこちらのテラスから飛び込む姿を見ることができます。

MTBレース会場では、正の名前が知られるようになりました。そして、NORBAというUSAのMTB連盟の正式カメラマンとなって、日本国内に多くの情報を送り続けました。ビルダーとも出会いました。トップライダーとも友達になりました。スーパースター達は、その後日本のMTB発展のため、正がプロデュースするMTBイベントにボランティアとして何度も参加してくれるようになります。そして日本のMTBの夜明けが始まったのです。

私が「物をデザインする」から「環境をデザインする」に変わってきたのはこの頃でした。「生まれてきたしるしとは、物質的な価値ではなく、どれだけ多くの仲間と共感し合えるか」、やっとこの頃になって、生まれてきた標がなんとなく見えてきたようでした。

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